教えのやさしい解説

大白法 537号
 
身業読誦(しんごうどくじゅ)
 「身業読誦」とは、法華経に説かれている忍難弘教(にんなん ぐきょう)の説を身をもって読誦することをいいます。色身(しきしん)をもって法華経の文々句々を実践する意味から「法華経の色読」ともいわれます。
 法華経の『勧持品(かんじほん)』には、
 「唯願わくは慮(うらおも)いしたもう為(べ)からず 仏の滅度の後の恐怖悪世(くふ あくせ)の中に於て 我等当(まさ)に広く説くべし 諸の無智の人の 悪口罵言(あっく めり)等し 及び刀杖(とうじょう)を加うる者有らん 我等皆当に忍ぶべし」(法華経 三七五n)
と、法華経の行者が悪世末法において法華経を弘めるならば、俗衆増上慢(ぞくしゅう ぞうじょうまん)・道門(どうもん)増上慢・僣聖(せんしょう)増上慢といった三類の強敵が競い起こり、種々の大難に遭(あ)うであろう、と説かれています。
 日蓮大聖人は中国・日本に出現した天台・伝教等を一往(いちおう)は法華経の行者と呼称されていますが、『開目抄』に、
 「天台・伝教もいまだよみ給はず」(御書 五四一n)
とあるように、天台・伝教は三類の強敵等の大難を体験されていません。
 しかるに、日蓮大聖人は『寂日房御書』に、
 「日蓮は日本第一の法華経の行者なり。すでに勧持品の二十行の偈(げ)の文は日本国の中には日蓮一人よめり」(同 一三九三n)
と、三類の強敵による大難をことごとく身読実証された御自身こそが悪世末法における真の法華経の行者であることを宣言されました。
 それは『神力品』において結要付嘱(けっちょう ふぞく)を受けた地涌千界(じゆ せんがい)の上首(じょうしゅ)・上行菩薩の再誕(さいたん)としての宣言であり、その御自覚と御振る舞いによって、法華経が真実の教えであり、その功徳が絶大であることを証明されたのです。
 しかし、これもまた一往教相上(きょうそうじょう)の意義であって、「身業読誦」の再往(さいおう)の意義は、久遠元初(くおんがんじょ)自受用報身(じじゅゆうほうしん)如来・本因妙の教主、本仏(ほんぶつ)日蓮大聖人の大慈大悲の御修行であり、御化導(ごけどう)だったのです。
 このように「身業読誦」は、本来は大聖人の死身弘法(ししん ぐほう)・不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)の修行を指しますが、『如説修行抄』に、
 「されば釈尊御入滅の後二千余年が間に、如説修行の行人(ぎょうにん)は釈尊・天台・伝教の三人はさてをきぬ。末法に入っては日蓮並びに弟子檀那等是なり」(同 六七三n)
と仰せのように、地涌の菩薩に連(つら)なる私たち弟子檀那もまた、その自覚に立って真剣に唱題、折伏を実践することにより、「身業読誦」の一分を行じさせていただくことができるのです。
 『土龍(つちろう)御書』に、
 「法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(同 四八三n)
とあるように、私たちは色心二法・身口意の三業にわたる妙法の真の実践者になって、日蓮大聖人の御意(みこころ)に適(かな)うよう精進してまいりましょう。